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塩見恵美の自己紹介

福岡市中央区の婚活カウンセラー エミリー縁結びサロンの塩見恵美です。

私の自己紹介です。少し長いですがお付き合いくださいませ〜。

3人きょうだいの長女として生まれる

1970年代、山口県徳山市(現周南市)に生まれた私は、母が出血多量で命を落としかけるほどのビッグベイビーだったそう。

第1子がハードな出産だったにもかかわらず、弟と妹を出産した。

改めて思う母の偉大さ。

別に結婚して子どもを産むことが「正解」という訳ではない。

ただ、子どもを産み育てることで、それまで気づかなかった親の思いは少しわかるようになってきた気がする。

無性の愛を与え続けてくれた母のおかげで、私はここまで生き延びられたと思っている。

私・祖母・母

苦しい思いをした幼少時代

そんな私が通ってきた道は、決して順風満帆ではなかった。

小さい頃からボーッとした子で、

幼稚園の時から、かけっこではビリ。

幼なじみには「トロい」「ノロい」と言われいつも置いてけぼりにされていた。

傷つかないように、感情に蓋をしていることもあった。

まともに悲しんでいたら、苦しすぎるから。

その頃から、庭の花や木に話しかけていた覚えがある。

今でも、花や木は大好きで、登山の時に木に抱きついて話しかける。

実は、母もそのタイプだということに、最近気がついた。

部活だけが生きがいだった中学時代

そんな感じで、運動も勉強もできず、そんなにパッとしない私は、中学時代にいじめに遭った。

クラス中が口をきいてくれない、存在を無視されるのはとても苦しかったが、部活だけは癒しの場で学校へは毎日行っていた。

今にして思えば、部活にだけ出るという選択もあったなと思う。

私と妹

そんな中学時代とは打って変わって、高校は仲間に恵まれ、本当に楽しく3年間を過ごした。まさに高校デビューだったかもしれない。

出会い

卒業後就職し、19歳のときに夫に出会った。

夫は正直でストレートな人で、三枚目キャラだが、その場のムードメーカー的な存在だった。

23歳で夫と結婚し、25歳で長女を出産した。

出産後に育児に前向きになれず自分が産んだ娘を可愛いと思えず苦しんだ。

今にして思えば、産後うつ、育児ノイローゼだったと思う。

そんな時に寄り添ってくれる人が欲しかったなというのが、今の私の原点だ。

3年後には次女を出産し、2人の娘と子煩悩な夫。

ごく普通の生活を送っていた。

突然の別れ

しかし、次女が1歳の誕生日を迎えてすぐに、

夫は事故で還らぬ人となった。

その頃のことは、よく覚えていない。

いろんな人に「あなたは気丈だから大丈夫」と言われていたから、きっとそのように振る舞っていたんだろうと思う。

あまりに突然に、あっけなく逝ってしまった夫。

日常だった日々が非日常になってしまった。

亡くなる直前まで、仕事が忙しく深夜帰宅が続いていた夫。

正直にいうと、夫がいる時には育児も家の切り盛りも、夫がいなくても1人でできると思うことが多々あった。

しかし、いざ自分の手から転げ落ちると、決してそんなことはなかった。

私は夫の元で、護られていたのだと気づいた。

それからも、長女の発達障害が発覚し、計算ができずに思い悩む時も、次女が不登校で説得できない時も、2人の進学も、他にほんの些細なことまでも、全て自分が考えて決めるプレッシャーはつきまとった。

パートナーは必要だ

なくしたからこそ分かる、パートナーの必要性。

今、女性は1人で生きていけるくらい強く、賢くなってきている。

子育ても1人で頑張っている女性がたくさんいる。

仕事も男性と同じようにこなして、男性以上の成果を出す人もいる。

そうなると、1人で生きていけると思えるかもしれない。

でも、私は、強がって1人で生きていかなくて良いと思うし、何より家族の存在はかけがえのないものだ。

長女・私・次女

尊敬できる相手と、支え合って、1人では創れないものを創り出すのが夫婦で、パートナーシップだ。

この世には、男と女しかいない。

お互いが求め合うことはごく自然なことだ。

私がそう言えるまでに時間はかかったが、

心理カウンセラーとなり、多くの女性の話を聞くことで、今でははっきりと言える。

「いつまでも尊敬でき、支え合える相手と、結婚したい。」

そう思う女性を応援したいし、そばで寄り添って見届けたい。

精一杯、婚活をサポートしていきたい。

結婚後も、私の育児経験が役立つなら、あなたのこれからの未来に、私の存在を使ってもらいたいなと思う。

福岡市中央区にある、エミリー縁結びサロン(IBJ日本結婚相談所連盟所属)では、本気で結婚したい方の結婚相談や婚活カウンセリングを行っています。

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